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2013年5月20日月曜日

神学こそが最強の学問である(後半)

第4章まで四苦八苦しながら読み込み、半分くらい理解できたものの、5章、6章は。。。

第5章 宗教は「戦争の世紀」にどう対峙したのか?

まずヒューマニズムという言葉で躓く。日本において多くの人は「ヒューマニズム」を人道主義・博愛主義の意でとらえられている。本文では言葉に忠実に人間中心主義として使われている。ここは誤読しかねない。以下の文で人間中心主義だと判別できる。
ヒューマニズムがナショナリズムと結びつくことによって、結局は第一次世界大戦という惨事を引き起こした(p178)
4章まではシュライエルマッハーの考えを中心に展開してきたが、5章からはバルト神学に移る。バルトはシュライエルマッハーの「神が内面化する」という論理が神学を哲学に変身させる恐れがあるとした。外部性を喪失した形で捉えるとそれは一種の汎神論になる。

まぁここまでは理解できる。ところがシェリングになると全くダメ。
シェリングの世界観では、この世の中は泥沼のようなもので底は見えません。しかし底なし沼とはいえ、底の底のほうまで潜っていくと、「無底」という名前の底がある。その無底の向こう側に神の世界がある。無底に触れることができるような、一種特殊な才能をもった人は瞬時にして世界の構造を知ることができると考えるわけです。
 詳しく説明しましょう。神は収縮している。神が縮まったぶんできあがった場にわれわれは生きている。この場は人間のもつ自由意志によって悪の領域に変わってしまった。
 (中略)
これはユダヤ教の神秘思想であるカバラ的jなものであるのみならず、実存主義を先取りした考え方です。(p186-187)
はい、お手上げです。次にいきます。
高山岩男は中庸という考えに反対するといっています。なぜか。極端な立場Aが誤謬だとします。そして、それと反対側の極端な立場Bが誤謬だとすると、誤謬と誤謬の中間も絶対に誤謬であるというわけです。だから、中庸などはありえない、真理というのは極端なところにしかないというのが高山岩男の考え方です。
 カール・バルトも同じ考え方をとります。つまり、個性を最大公約数に求めるような発想を厳しく斥けます。日本人とは何かを考えるとき、われわれはいま、シュライエルマッハー的理解になっていまっている。つまり日本人の平均像に日本人の個性を重ねるわけです。収入はどれくらいか、何歳で結婚したのか、その平均的なところに日本人の特徴があると考えてしまう。(p192)
これは目からウロコの考え方でした。ところがその後の否定神学になってまた???
否定神学というのは「何々ではない」という形での否定表現のみをつらね、その残余の部分を真理であるとする方法です。
 ビザンティン神学の伝統においては、否定神学のほうが圧倒的に真理に近づくのに適切な方法だと考えられていました。もし、否定神学的な方法で神を定義すると、神とは一切の述語表現を超えたものであるということになる。つまり、積極的に神について語らないことによって、逆説的に神について知ることになります。(p194)
全くもって理解できませんが、否定することで真理に近づく手法はDTPの世界でもあります。
出力トラブルの原因特定がそれに近いかな。

16ページ物の出力エラーが発生した→8p、4p、2p、1pと流しトラブルページの特定→テキストを削除し流し、画像に問題があるかテキストに問題があるか特定→特定箇所の半分を流し絞り込んでいく。この繰り返し。でもまぁ慣れれば、勘が働きポンとそこにたどり着きます。

っと、話を戻して
キリスト教のイメージでは、真理というのは楕円です。つまり、焦点が二つある。信仰と行為です。両者は一体となっており、切り離すことはできません。キリスト教における異端的な言説は、焦点を一ヶ所に集め、楕円を円に近づけてしまいます。(p199)
著者のイメージは左ですが、自分のイメージは右です。
新約聖書以降、現代に至るまで、キリスト教の理解では神から人間に直接啓示が降りてきたことはありません。もし、神からの啓示が降りてきたと言う人がいたら、その人はキリスト教徒ではありません。(p202)
ここは誤解されやすい表現だなぁ~。神からの語りかけはなくとも聖霊からの語りかけがある。そして創造主なる神、救い主なる御子キリスト、助け主なる御霊(聖霊)の思いは全くもって同じ。個人的には三位一体の立場から聖霊の語りかけは神の語りかけと捉えて問題ないと思ってる。でもって、現代は聖霊の時代、「使途の働き」は「聖霊の働き」ともよばれている。
バルトは、自由主義神学の時代に新約の中でももっとも軽視され評判の悪かった、ローマ書という保守的なテキストを読み直すことにしたのです。そして、このテキストを通じて神はわれわれに何を語りかけているのか、このテキストを通じて危機の時代に対しわれわれは何を語ることができるのかということを、徹底的に究明したのです。(p205)
各教会で行っている聖書研究祈祷会がこれですね。

第6章 神は悪に責任があるか?

キリスト教神学の立場からは、汎神論を受け入れられるか、受け入れられると考えると、すでに創造されたものすべての中に神の意志が入っていることになる。そうすると啓示が降りてくる場がなくなってしまいます。(中略)それこそが、神が遍在しているこの世に、なぜ悪が存在するのかという問題なのです。(p211)
 では、広島・長崎の原爆はアメリカ人に善意が欠如していたから起きたのか。そうではない。アメリカ人は善意であの爆弾を作ったわけです。戦争犠牲者をこれ以上出さないために、原爆を投下したのです。アメリカ人の真意は別にして、善悪とはこのように相対的で、歴史観が異なれば善悪は容易に反転します。(p212)
 汎神論というのは、この世に悪が実在することを認めた瞬間に汎悪魔論になります。この世の中には神ではなく悪が満ちていて、総和すると巨悪が生まれるという理解になってしまいます。(中略)そこで、神が正しいということを証明するのが神義論もしくは弁神論です。(p214)
で、プロセス神学なるものが紹介されてたのですが、もう「神の収縮」で理解不能です。
ゴーガルテンになると脳みそが発熱してしまいます。
聖書というテキストを解釈することと、信仰告白を行うこととの間には断絶があります。(p221)
信仰告白前に聖書を解釈すればそうなると思いますが、神が何を自分に語っているのかと問いながら読めば断絶など起こりえないと感じてます。

弁証法神学は信仰者の応答責任を重視したゴーガルテンの手法を突き詰めていくと、ナチズムに反対するばかりでなく同意する道もできてくる(両義性)。←メモ

で、ここまで書いてダウン。ギブアップです。なんか神学を追求すればするほど信仰から離れていく気がします。はい、専門家にまかせましょう^^

「自分探し」という言葉がひと昔前に流行りました。自分が何をしたいのか、何に向いているのかです。50過ぎた今の自分もそれです。自分の思いとは別に神の目的があります。神の目的(自分に何を期待しているのか)が分かれば、それに向かって一直線なのですが、それが分からない。
 信仰告白をしてキリスト者となったものには全員、約束の聖霊が与えられています。そして聖霊の賜物があります。個々人によって違います。

聖霊の賜物と務めのサイトでやった結果、自分には 

24.接待
泊る場所と食べ物が必要な人に、暖かい愛の心で(もてなし)歓待する賜物(I ペテロ 4:9)

17.助ける者
他の人を助けつつ、彼らの持つ賜物を活用して教会成長をもたらす賜物(I コリント 12:28)

があるようです。聖霊の働きを敏感に感じることが必要だと感じてます。

2013年5月16日木曜日

神学こそが最強の学問である(前半)

統計学が最強の学問であるが売れているらしいが、タイトルの通り。
はじめての宗教論 左巻―ナショナリズムと神学

一読しただけではちと難しい。右巻を読んでないためメモ書き。
 ところがプロテスタントには、イエスがキリストであるということを認めない教派もある。たとえばユニテリアンがあります。イエスは救い主ではなく、偉大な教師だったという主張です。プロテスタントの規範からすると、キリスト教の基準というのは、イエスが救い主であることを認めるかどうかにあるでしょう。しかし、ユニテリアンがキリスト教から排除されることはありません。
 そのほか、統一教会(世界基督教統一神霊教会)はどうかというと、教団は文鮮明師をメシアとします。イエス以外のものを救済主とすると、これはキリスト教の公理系違反になるわけです。もっとも、統一教会がキリスト教から派生した新宗教であることは、間違いありません。一部のキリスト教徒が統一教会を目の敵にして、攻撃するのは間違っています。伝統的なキリスト教と統一教会の差異を正しく認識し、相互に信仰を尊重し合うことが重要です。(p33)
ここでいう一部のキリスト教徒に当てはまるのはワタシですw いくらなんでも、これは論外だと思ったものの、著者はインテリジェンスの世界に身を置いていたわけで、この視点から見ると氏の本心ではないと勝手に推測。異端だと宣言した相手から貴重な情報を引き出すことはできないでしょう。と同時に、諜報の世界で統一教会が無視できない存在であることが窺える。

 20数年前、統一教会の信徒とは韓国教会に身を置いている時に出会った。もっとも彼が統一教会の信徒であることはかなり後になって知ったのであるが。。。
 彼は聖書勉強がしたいと教会にやってきた。私たちは疑うことなく彼を受け入れ、一緒に聖書勉強をしていた。
 どうも統一教会の信徒の方は、社会的に非難されている団体のためか、本当に自分の信じているものが正しいのか?の疑問を持ち、他教会にきて確信を得ようとする傾向があったように感じられた。
 また教会が統一教会に乗っ取られかけたという話も耳にしたことがある。求道者を装い教会に来て洗礼を受け、熱心に活動し教会の中心人物になり、牧師を追い出し。。。

 彼が教会に来たのは確信を得るためだったのか?それとも計画的だったのかは今もって不明。
ナショナリズムというものは、人間が作り上げた国家という偶像への信仰を強要する、きわめて危険なものだからです。キリスト教は貨幣とナショナリズムには警戒しなければならない。しかし、貨幣と国家なしには、二一世紀に生きているわれわれの生活はもはや成り立ちません。(p66) 
これは信仰者においては継続的な課題。で、本書で答えは出てない。シュライエルマッハーの教会=国民=民族の「神は内に宿る」の理論を紹介。内面に絶対者が居る「解釈の過剰性」。
ナショナリズムの理想は生への拒絶と死への愛であるというケドゥーリーの指摘は問題の本質を衝いています。(p75)
まぁ、この辺りは右翼の自爆テロ的切腹自殺を見れば理解できる。
このように、メタ学問として学問の世界全体を統括するのが神学の役割だというのが神学の側の自己認識です。だから、ヨーロッパの総合大学において神学部がないということは考えられません。(p102-103)
著者の立場は、まさにここにあると感じられる。神学は長い年月、あらゆる疑問、指摘に答えられるように理論的に完成されている。そして神学を神学の中に閉じ込めることなく現実世界に適用している。まぁ、この辺の応用力というのは本当に頭のいい人しかできないことであり、自分には無理。それゆえ、この本を読み知恵熱が出たのです。w
人にはそれぞれ天命がある。その職業につかないといけないというのがキリスト教の職業倫理です。(p111)
天職をベルーフ、単に金を稼ぐのをジョブと区別している。天命が分かって仕事に就いている人は幸せというしかない。50を過ぎた今でも自分は天命、天職というのが分からない。

本書には記されていないが、聖霊の賜物というものがある。個々人によって違うものらしい。これすら私には自分がどんな賜物を持っているのか分からない。教会によるのだろうが、聖霊の賜物、聖霊そのものについて語ることはほとんどない。DTPが天職、天命だと思っていたが、復帰の道が途絶えた今、それは全くの思い違いだったと思わざるをえない。
受肉論という比較的狭い専門分野でも、同志社大学神学部図書室の関連文書を読むだけで二〇〇~三〇〇年かかる。(P113)
神学をやっている人を全員集めたからといって神学の全体をつかめるわけではない。(中略)
 全体をつかめなくとも、他の分野はだいたいどうなっているのかという概説的なことは知らなければなりません。組織神学を専攻している人でも歴史神学や聖書神学や実践神学について一通り知っていないといけない。そうしておけば専門外のことについても、専門家としても明確な判断はできなくとも、おかしな議論に対しては「あ、この議論はずれているぞ」とか「これは、デタラメだな」ということはわかる。(P114)
このために勉強するのですね。「学問のすゝめ」。なお、神学と哲学の違いを神学は身体、哲学はそれを包む衣服としてます。倫理は救済のためにどのような正しい選択をするかという、自らの決断。
弁証学というのは一言で言うと、敵・外道との喧嘩のための学問。キリスト教以外の人々との関係において、キリスト教が正しいということを証明するのが弁証学です。それに対してキリスト教の内部、つまり他のキリスト教のグループに対してわれわれのグループが正しいという証明をするのが論争学です。(P144)
右翼と左翼の関係が弁証学、内ゲバや内部闘争が論争学。弁証学は教会に対する敵意を退けるための弁護。論争学は異端審問学。

で、個人的にうなづけたのがP146に出てくる理神論。
最初の第一撃は、神によってパコーンともたらされた。そして、その一撃の後は全部、物理の法則で動く――このような考え方です。
まぁ信仰に入る時というのは、このパコーンという第一撃を誰しも経験しているわけです。そしてキリスト者に共通するのが「あなたの人生の中で最高の出来は何でしたか?」の質問を受けた時、誰しもこのパコーン体験を答えるのです。(ひょっとしたら違う人もいるかも知れません)
 早い話が教会というのはこのパコーン体験を持つ人の集まりでして、イエスキリストのファンクラブだと思ってもらって間違いありません。違ってたらごめんなさい。
 その一撃の後は全部、物理の法則で動く――は異論おおありなのですが、いつも神を身近に感じてるわけでもないので、まぁ良しとしましょうw 大事なのは最初のパコーンなのです。好きだなぁ、このパコーンという表現。

祈りという行為をとおして、神の声を聞く。しかしシュライエルマッハーの構成では、それは、イエス・キリストによる啓示ということではなくて、「宇宙の直観」「絶対依存の感情」という形で自分の良心の声を聞くことになる。(p157)
未信者と話して「神の声」などとこちらが言うと「それは良心の声なのでは?」との疑問を受けることがあります。よく引き合いに出されるのが遠藤周作氏の「沈黙」に出てくる声です。良心の声は自分の内にあるものが出てきますが、「神の声」は自分の中にはないところから来ます。ロドリゴが聞いた声をもともと自分の内に持っていたのなら彼は宣教師にならなかったでしょう。
プロテスタントはカトリックから分離するときに自らの絶対的な正しさを主張したのではなく、わが道を行くという形をとったからです。ここにプロテスタンティズムの原点があります。(p161)
教会を替わった人にはすっと理解できる箇所です。と同時に教会を離れたことで罪意識に襲われる人には読んで欲しい箇所です。「神の声」が聞こえたとき、それは真実です。でも全ての人に適用されるわけではないのです。聞こえたあなたにとってだけです。だから恥じることなく自信を持って示された道を歩んでください。
「イエス・キリストの十字架上の出来事を完成させるのはアーリア人種の長であるアドルフ・ヒトラー総統だ」と言う場合、これは異端になる。(p167)
ヒトラーを文鮮明に置き換えると氏の本心が分かりますw

と、第4章までメモったけど無駄なページがひとつとしてなかった。理解できないところも多々ある。著者とは同年代なのだが、学生時代遊び呆けていたのと追求していた人との彼我の差を感じざるを得ない。突っ込んで勉強する気も能力もないがキリスト者として最低限の基礎知識はつけておかねばな。

2013年3月15日金曜日

陰謀論と歴史認識

3.11東日本大震災の後、荒唐無稽な人工地震説なるものが出てきた。blogに書くほどのことでもなくスルーしてきたが、今日たまたま3.11人工地震説について(ペンテコステ系クリスチャンらしき人のHP?)で見かけたので書く。

検索すれば反論のblogがいくらでも出てくるが、地震国日本であれば人工的でなくてもいつかは巨大地震が起こりうることは誰でも分かるはず。アチキがはみ出しクリスチャンのように、書いた人も教会からはみ出した人と思いたい。まさか教団の見解ではないでしょう。

「陰謀論」は、人間の「意図」と「結果」が必ず一致するという思考の産物である。
「陰謀論」は、人間の世界の複雑さを観察することに耐えられない人々こそが、走りやすい代物だといえよう。「複雑な」世界の様相を読む際に単純な「解」を見つけ出して、「俺だけが、『解』を知っている」と思うことは、人々に倒錯した優越感を与えるものである。「陰謀論」が後から後から出てくる背景には、そうした「脳内麻薬」の需要に「陰謀論」が応えているからであろう。 
 陰謀論という「脳内麻薬」より


見ていて頭が痛くなったのが日本の大リバイバルの預言集

預言的日本の画像:  ガリ・ホール宣教師(名古屋市在住)が聖霊様に示され、キャロル・ホール夫人が描いた 預言的な油絵。 * 注) 十字架が宮城県に立っているのは、東日本大震災の予告と考えられる。 (・・・ 2012 11/10記)
陰謀説でにせユダヤ人を批判しながら、預言として大震災を取り上げている。
もうわけわかめ。



で、今日見たのが

2013年3月8日衆議院予算委員会 質疑の動画


0:38:00あたりから注目。

2012年11月28日水曜日

ストレスが溜まる

風邪を引いて調子がいまいち状態が長く続いていたのですが、病院に行き薬をもらってから大分楽になりました。ようやくblogを書く元気も出てきました。

まぁ、とにかくここ2-3ヶ月はストレスが溜まりまくり。原因は分かっているのです。
収入の著しい低下もありますが、とにかく礼拝に出席できない。隔週でしか出席できない。
出れても仕事明け、そして礼拝後は直ちにGSのバイトに出かけるので教会員の方々との談笑もできない。礼拝中は睡眠補給に自然と入り、牧師が何を話したのか残っていない。
隔週で日曜の早朝から24時間勤務が続いてます。人がいないためです。
以下は愚痴の列挙、スルー推奨。


DTP復帰の求職活動

まったくダメ。面接にすらたどりつけない。自分がDTP復帰にこだわる最大の理由が日曜の礼拝出席。基本、日曜は休みですから。とはいえライン工のような流れ作業DTPはやりたくない。仕事全体が俯瞰できない作業はそれはそれでストレスが溜まるのです。派遣でそれをやっていたのでもう勘弁という思いがあります。贅沢なんでしょうね、自分。。。それでも復帰できた師匠が羨ましいです。

GSのバイト

いくら募集しても人が集まらなかったが、9月に入ってから突如、応募者殺到。入ってもすぐに辞める人が続出していた関係で全員採用。はい、ひとり当たりの労働時間は少なくなります。で、全員が少なくなればいいのですが、声のデカイ、わがままな人のみ時間は減らされませんでした。これもストレスのひとつの原因。

警備の仕事

欠員補充にも書いたのですが、お盆明けに一旦、通常勤務に戻ったのもつかの間、すぐに欠員が発生し、ひとり巡回が今日まで続いています。施錠点検巡回を息継ぎなしで4時間半、小走りで回ってます。要領を体得し、若干、短縮できたものの手抜きはできません。不思議と手抜きしたところが発覚するものです、何ででしょうね? で、このひとり巡回、やっているのは自分だけなのです。シフトの関係で自分の勤務の日のみひとり巡回なのです。周りが高齢者ばかりとはいえ、もう4ヶ月以上もこの状態が続いています。手当ても付かなくなりました。増員の話もありません。12月のシフトが配布されました。12月も自分のみひとり巡回です。流石に責任者に注文を付けました。結果、わずかだが手当てをつける、1月から解消されるとの話なのですが、どうなのでしょうか? 給与の少ないのは仕方ないにしてもGSのバイトのように不公平感が溜まってきます(はぁ~

DTPセミナー

今年は仕事のスケジュールと重なり、今日までただの一度も参加できませんでした。どんどん離れていく、浦島太郎になる~。。。アリ地獄の中でズルズルと砂に埋もれていく気分です。DTPの勉強会のDVDを数枚、購入したもののまだ見てません。というのもPCから音が出ないのです(涙
12/8に今年初めて文字の学校公開講座「はじめての正規表現」に参加します。なんとかこの状態から脱出できるきっかけにでもなれば。。。主に願うのみです。

教会関係

50周年記念誌の原稿がまだ。。。校正を出しても戻ってきません。来年は52周年になります。
家族の中で教会に通っているのは自分のみ。最後の砦だった娘も受験を理由に礼拝はサボリ気味。


まぁ今年は勤務先の警備会社が契約打ち切りで失業、給料未払いを皮切りに散々な年でしたw
ツイてないとは考えずにツキを溜め込んでると考えてます。来年はこの溜め込んだツキが堰を切って流れる。オレの時代がキタ~、時代がオレに追いついた。となるでしょうv(^^


2012年10月22日月曜日

血の呪縛

twitterに流したけど言葉足らずだったし、自分の頭を整理する意味で
佐野氏は、「血(ルーツ)」こそがひとの生き様を支配する、という人間観を持っている。←それはそれで正しい。ただ、血の呪縛から逃れようと必至で足掻いている人を絶望に落とす人間観でもある。 / “週刊朝日は謝罪すべきではなかったし、連載を続…”  
雑誌を読んだわけでもなく、佐野氏の本を過去一度も読んだことがないのに感想を述べるのも何かと思ったのだが。。。
「血(ルーツ)」こそがひとの生き様を支配する、という人間観は自分は同意できる。
その人の人となりを理解するにはどのような環境で育ったかは、当人がいくら否定しても少なからず影響を与えている。本人が吐き気をもよおすほど嫌いな人間を父親にもち(オレはあんな人間にだけはならん!)と心に誓い、生きたとしてもだ。それは経験したものにしか分からない。
だから手法として出自を明らかにし、父母の人格、成長する過程で影響を受けた人々(友人、恩師)などを通して当人を語るのは正しい。だから同和問題にすりかえられて導入部分で連載中止は理解できない。育った場所の影響もなきにしもあらずなのだが、一番影響を与えるのはやはり「血」だと思う。
「親は親、子は子」という考え方もあるが「蛙の子は蛙」という言葉もある。
(オレはあんな人間にだけはならん! そしてそう生きてきた。「親は親、子は子」)という考え方は、ある意味「傲慢な」考え方だ。そして自身に反吐が出そうなほど嫌っていた人間と同じ部分を見たとき、絶望する。本当に絶望する。いくら足掻いても血の呪縛から逃れられないのかと。

「血の呪縛」から逃れるたったひとつの方法――それは、新しい「血の呪縛」を受けること。
イエス・キリストの十字架の血を浴びること。自分にとってはそれだった。
それでも古い「血の呪縛」がむくりと起き上がる。そこから逃れるために再度、キリストの血を浴びる。キリストの血を浴びなければ、とうの昔に死んでいた。

2012年9月24日月曜日

最後の言葉

「先生」
 小谷は弱々しく久蔵を呼んだ。が、あとは声もなく涙ぐんだ。久蔵は小谷の手を両手でしっかりと握りしめ、
「頑張れよ、小谷」
 と、励ました。が、その自分の言葉に久蔵は愕然とした。今、まさに死のうとしている小谷にとって、最も必要としているのは、こんな言葉ではないはずだと思った。久蔵は文字通り命がけで生徒たちを愛して来た。しかし一体何を教えて来たのか。人生の一大事にあって、最も必要なことを、なぜこの一年間に、この小谷に教えて来なかったのか。そのことが、久蔵の胸を噛んだ。
 小谷の家を出るや否や、瀕死の小谷に対する愛と悔恨に、久蔵は激しく号泣した。まさに大地を叩かんばかりの嘆き方であった。
三浦綾子氏の「愛の鬼才-西村久蔵の歩んだ道」p129より
浅田次郎氏の「プリズンホテル」を1-4まで読了したので、そいつをメモろうかと思ったが止めた。今、読み始めたのが上記の本。
 「死」を想定して生きていない自分は主人公のように最期にかける言葉は、ああなってしまったろうなと思わされるし、また亡くなる方も「死」を意識しなければ似たようなものになるだろう。

 いまだ心に残るのが教会員だった陽一くん。15の時に天に召された。
自分が今の教会に転会してきた時はすでに片足を切断し頭髪はなく、末期症状で入院していた。それでも時折、礼拝に来られていた。
 彼に最初に会った時、思わず目をそらしたのを覚えている。

自分の全てが見透かされている。 そんな風に思わされた。

「透徹した目」とはあのような眼をいうのかもしれない。
神に見られている--そんな畏れがあった。
その畏れからなのか彼と言葉を交わした記憶はない。
何を語りかけてもウソになってしまう。。。そんな風に思っていた。

教会員のよく使う挨拶に「祈ってます」がある。
本当に祈ったのか、心のそこから祈ったのか、どれだけ祈ったのかと問われれば、「祈ってます」などと軽々しく言えない。当時もそう思っていた。

彼が天に召されたあと、牧師の前で号泣した。心のそこから祈れなかった自分が情けなくて。

そんな過去があったせいか、あいつの時は祈った。心のそこから祈った。でも最期にあいつにかけてあげた言葉は何だったのだろうか? 「また来週、来るよ」だったような気がする。あいつも陽一くんのように透徹した目をしていたが優しさで自分を包み込んでくれていた。「死」に対して備えのある人たちはあのような目になるのだろうか。

反面、親父ときたら平均寿命を過ぎてからガン発覚にもかかわらず、医者の「必ず治ります」の言葉を真に受けて「死」を考えることなく、最後の最後まで欲の皮が突っ張ったままだったw 身辺整理を何一つしていなかったから後始末が大変だった。ピンピンコロリというか亡くなる当日に容態が急変したから。本人は今でも自分が死んだことを実感できてないんじゃないかな? 最期に交わした言葉は電話で「苦しそうだな、こどもたちに替わるか?」だったと思う。

冷たい人間なのでしょう、何の悲しみもありませんでした。むしろ恨みを晴らせずに残念!の気持ちが今でも。最期だと分かっていたら

地獄に行きやがれぇ~!

と叫んでいたな、ウン^^

と、ここまで書いて結局、美しい生き方はどれだけ「死」と向かい合って生きているからなんだろうな、と思わされる。親父も向かい合っていれば家族と和解できたかもしれない。それは自分に置き換えても言える。

時計を戻して陽一くんとあいつに会えるとしたら「天国でまた会おうな」だと思う。

しかし、頑なに自分の考えを主張していた親父には、、、う~ん。。。

2012年9月14日金曜日

プリズンホテル1 夏ドッグイヤー

「見てよ、かあさん。三十年間、一日もズルしてないんだ」
「知らないよ……そんなこと」
 どさりと投げ出されたファックス用紙の上に、母は膝から崩れた。とまどう表情を見ながらぼくは、もしかしたらこのことだけが夢だったのだろうかと考えた。

「別れるとき、最後に言ったじゃないか ― ―そうだいいことがある、おまえ毎日、日記をつけな、って。いつかかあさんがそれを読めば、おまえが毎日なにをして遊んだか、何を食べたか、どうやって大きくなったか、すっかりわかるように。いいかい、一日もかかさずにだよ、って ― ―そう言ったじゃないか。とぼけるなよ。ほら、読んでくれ。ぼくはかあさんに捨てられてから、こうやって大きくなったんだぞ。さあ、読めよ。最初からぜんぶ」
 仲オジがぼくを羽交がいじめに抱きかかえた。
「わかったよ、孝ちゃん。もういい、わかった」
「わかるもんか。わかってたまるかよ。読めよ。声出して読め。そうだ、そのへんてこな字はな、小学校四年のとき自転車でコケて右手を折って、泣きながら左手で書いたんだぞ。こっちのやつはな、自衛隊の演習中に、塹壕の中で慄えながら書いたんだ。熱出したって、酔っ払ったって、女にフラれたその晩にだって、ちゃんと書いたんだぞ」
p295-296より

【プリズンホテル2 秋】を読了後、(はて? 1はどんなストーリーだったっけ?)。
面白く読めたことだけは覚えていた。そんなわけで1をパラパラと読み、あらすじを思い出す。
1より2の方が面白いやんけ! 普通、2の方がつまらんというのが世間相場なのに。

1ヶ所だけページが折り曲げられていた。

夢が現実になるのではなく記憶となるに関連している。

突如、駆け落ちした主人公の母が、彼と「毎日、日記をつけな」と約束するはずもない。
夢が体験記憶になったのだろう。

哀しいほどの片思い。。。信仰の世界でも通じるところがあるな。母を神に置き換えて。

毎日、祈って祈って、そして祈って。それでも解決されず道が示されず教会を去った姉妹がいた。
信徒のだれもが神に愛されているのではない、見捨てられたと思うことがある。
それでも主を愛す。片思い。
教会を去った時の彼女の叫びは主人公のような叫びだったのか。

2012年9月13日木曜日

夢が現実になるのではなく記憶となる

ありきたりの「夢が現実になった」という話ではない。
夢を「夢」として認知できず、実際、自分が経験したかのように錯覚することである。

今、自分にその性癖があるのか考えている。

自分と同年齢の人は「大阪万博」を小学校高学年の頃にむかえたはずである。
で、当時話題となっていた「タイムカプセル」の話を覚えているだろうか?
全国的なブームとなり、多くの学校がタイムカプセルを埋めたと記憶している。
自分のいた学校でも例に漏れずタイムカプセルを埋めた(はずである)。

21世紀になったら掘り出すはずであった。

2000年に中学の同窓会があった。
当時、ブラック企業に転職したばかりの自分は休みがロクにとれず、参加を見送った。
不参加ながら同窓会ではタイムカプセルのことが話題になり、いつ掘り出すか決定するのかと思っていた。

参加した友人に同窓会の話をきいてみた。そしてタイムカプセルのことも。

「タイムカプセル? 何、それっ? 記憶にないなぁ」

で、友人は同級生数人に連絡を取り、タイムカプセルのことをきいたが皆、同様に覚えていない。
最近、ネットで中学時代の女子と連絡をとるようになり、タイムカプセルのことをきいた。
やはり覚えていない。。。

40年以上経って皆が忘れたのか? それとも自分の性癖なのか?

夢を現実にあった記憶として認識することがある。


以下は過去の事例

未信者の妻と結婚するにあたり韓国人宣教師たちから猛反対を受けたのが20年前。
妻との結婚を選び、母教会を去ったのだが、行く教会がない。
そこで学生時代からの腐れ縁(今は友人ではない)がいる教会にしばらく行くこととなった。
彼は自分が韓国で導かれた同時期に日本で導かれ信徒となった。
あろうことか腐れは今、その教会の牧師をしている(神をも畏れぬ所業!)。

しばらくの間、その教会に練馬から1時間かけて通っていた。
そのうち公団の抽選に当たり、入間市に引っ越すこととなった。
そこから通うには2時間近くかかる。さすがにそれは無理。
そこで腐れのいる教会の牧師先生にご推薦の教会はないかと相談に行った。
牧師先生は分厚い辞典のような本を取り出し、教会を選ぶ。
なぜか隣の市(狭山市)の教会を紹介してくれた。 
それに対して自分は
「入間市と狭山市は隣ですが、電車で行くとなると一度、所沢に出ければならないので不便なんです。別な教会を紹介してください」と答える。 
牧師「ホントはここがいいんだけどなぁ~」(ブツブツ) 
オレ、本をのぞきこむ。今、在籍している教会の名前が書いてあった。 
腐れ「すみませんね、先生。こいつ、我儘なんで勘弁してやってください」 
オレ、(おめぇの方が数段、我儘だろが、ボケッ!)と心の中で呟いた。
入間市に引っ越して散歩してるときに、今の教会を見つけた。直線距離にして100m離れてない。


自分が引っ越した先は入間市と狭山市のほぼ境。そして教会も境のところにあった。
教会名を見て(あぁ牧師先生が紹介してくれた教会だ)。そのまま教会員となった。

最初は牧師先生が紹介してくれた教会にきたのだと思っていた。しかし、よくよく思い出してみると詳細なやりとりの前後の記憶がない。というより腐れと一緒に相談にいってない。
夢の中のやりとりを自己の記憶としていたのだった。

タイムカプセルも詳細に覚えている。埋めた大体の場所さえも。
しかし同級生たちは皆、覚えていないという。この記憶は夢だったのか?

2012年9月3日月曜日

勝得善と歴史認識


教会月報に掲載予定の記事。

 ロンドン五輪を契機にナショナリズムが高揚し、日中、日韓の領土問題がマスコミを賑わせている。妻が中国、そして韓国で洗礼を受けた身としては内心穏やかでない。正直、泣きが入り、もう勘弁してくれとの思いがある。民族感情がこじれて、どうやってキリストを宣べ伝えることができるのか? 韓国から多くの宣教師が来ている今日、マイナスにしかならない。

 感情に駆られて教会月報に政治的な問題を載せていいのかと迷ったが、書く。

 悶々としている中、「勝得善」という言葉を目にした。『勝てば官軍』の言葉があるように、勝ち=得=善となりがちだが、順列組合せで勝得善、勝得悪、勝損善、勝損悪、負得善、負得悪、負損善、負損悪があるという考え方だ(目からウロコ)。

 国家的立場は「勝得」を優先して考えなければならないだろうが、ひとりのキリスト者としてはやはり「善」を追い求めなければならないと思う。「負損善」でもいいと思う。

 ただ、どうしても譲れない一線がある。それは歴史認識。

 この歴史認識が各国共通ではなく、各国独自の認識であるのが現状。自分から見ると行き過ぎた認識を持っていると思えることがある(南京大虐殺の被害者数)。捏造と思えることすらある(従軍慰安婦問題)。これらの事例を教会に置き換えると「主の復活はなかった」「ユダの福音書」「三位一体ではない」等の異端を容認することに等しい。異端を容認することは福音を否定することであり、同様に各国独自の歴史を容認することは正義を否定することになる。

 日本でも「ネット右翼」と称される人々が積極的に書き込みをしている。具体的な事例、数字を挙げてだ。説得力があるだけに彼らの「日本は侵略戦争はしていない」の論理に引き込まれそうになる。

 共通の歴史認識がないから独自の歴史を教育現場で教えることになる。最近では「世界最初の古代文明は古代朝鮮を加えた五大文明」なる驚きの教科書も目にした。そして今、独自の歴史教育を受けた世代が各国のリーダーになっている。幼少期から刷り込まれた意識を拭い去るのは容易ではない。

あくまでも私個人の意見ですので、所属する教団、教会の意見ではありません。

2012年5月4日金曜日

神に用いられた名もない人

教会50周年記念誌の編集作業を進めている。記念誌の記事に出てこないがアダチさんのことをに書きとめておこう。

アダチさんは数年前に天に召された。教会の開拓者アメリカ人宣教師時代に在籍されていた方である。引越しを機に教会を離れたが、6年ほど前に教会に戻られた。だから自分との接点のある教会生活は2年あったかどうかである。そのためさほど親しく接していたわけではない。
けれどここにきてやたら思い出される。

日本の教会はほんの一部を除いて教会が成り立つかどうかのギリギリの人数が大半。そのためか信徒が他の教会に移ったりすると、教会員を獲った獲られたの感情が働く。牧師であってもだ(いや牧師だからからこそかも知れないが)。同じ教団の教会に移る場合でもそれが働く。

15年ほど前に近隣に韓国人宣教師の教会が開かれた。近所ということもあり、自分のいる教会も教会の開設に協力し様々な援助をし、教会員どうしの交流も生まれた。それなりにいい関係が続いていたのだが、教会員が近所ということもあり韓国人宣教師の早天祈祷会に参加したのを機に牧師同士の関係が悪化。そのためかその教会員の方はどちらの教会に行くこともできず、今は別な教会に転籍された。

まぁ、どこの教会の牧師も他の教会から信徒を引き抜こうと考えてはいないのだが、結果としてそうなってしまうことは間々ある。「誤解」という奴なのだが、それを解くには並々ならぬエネルギーを要する。というより解こうとすればするほど、より誤解が生ずるというのが世の常。

アダチさんはそんな時に韓国人宣教師の教会にやってきた。ご主人が亡くなったのを機にこの地に戻ってきたのである。礼拝に出席し、宣教師と雑談している中でアダチさんが以前いた教会が自分のいる教会であることが判明する。なんでアダチさんが自分の教会に戻って来なかったのかというと、アメリカ人宣教師時代から日本人牧師に替わる時に教会名が変わってしまったからである。

そして韓国人宣教師の方はアダチさんをこちらの教会に戻された。

それを機に牧師と韓国人宣教師の仲が回復し、以前以上に関係が深まり今日に至っている。

アダチさんはそんな経緯を知らずに礼拝に出席し、その後天に召された。
自分が神に用いられたということを知らずに。

存在する。ただそれだけ神に用いられる。それを証しされた方でもあった。

2012年2月29日水曜日

活性化のバロメーター

教会の記念誌が進行している。で、座談会の中に興味を引く発言があった。
N兄 K牧師のころは「月報」が重要な位置を占めていましたね。発行されると毎回礼拝の報告で経過や内容が委員会から報告され、午後に合評会があったと記憶してます。

牧師 残されている月報を見ると、信徒会の報告があり、役員会の議事録があり、メッセージの要約があり、寄稿があり、ニュースがあり、大変盛り沢山ですね。

K兄 とても緻密で、月報には力点が置かれていたんですね。

N兄 当時は月報に大変なエネルギーが注がれていたと思いますね。執筆者を予定してみんなで書いていた。

O姉 今は大体決まった人が書いていますが、月報はやはり手分けしてみんなで書いたほうがよいと思いますね。
教会の歴史の中でK牧師の時代は「黄金時代」と言えるほど受洗者が多かった。
恥ずかしながら月報担当者にもかかわらずK牧師の時代の月報はまだ読んでない(反省!)


本が売れないという話が出てから10年以上が経つ。様々な要因が挙げられてきたが、とどのつまりは社会が活性化してないからなのだろう。outputがないからinputもない。

DTP・印刷業界に入って当初にやっていた仕事は社内報、PR誌の割付、版下だった。当時、関っていた社内報、PR誌はまだ続いているのだろうか? 仮に続いていたとしても内容は充実しているのだろうか?

不況になると真っ先に削られるのが企業の宣伝費。社内報、PR誌が槍玉に挙げられる。お金が出るばかりで一銭の収入もない。経済原理ではそうだ。けれど目には見えないエネルギーの伝播が紙にはある。ニワトリが先か、卵が先かになってくるが、教会月報に限らず、社内報、PR誌が活性化すれば社会は活性化してくると信じてる。まだまだ月報に注ぐエネルギーが足りないな、自分。

2012年2月2日木曜日

教会(協会)月報作成のポイント

今月も無事、教会月報を出せました(^^;A 教会月報コンテストなるものがあれば、金賞はいただけるものと確信してます。長年、DTPに携わっていたものの、教会月報を手がけるようになったのは4年前からです。自分なりのこだわりやコツも出てきましたので、なにかの時の参考にでもしてください。

以前の状態の月報は自由投稿。当然、積極的に書こうという人は出てきません。牧師の巻頭言だけで完結してしまうこともしばしば。月ごとの投稿者割り当てをしても原稿はなかなか集まりません。

組織改編で自分が担当になり、やったことはアナログからデジタルに替わっただけ、中身は変わってません。原稿の集め方が従来通りでしたのでなかなか集まりませんでした。仕方なく自分でネタを漁り書いてました。自分のblogではないので、このやり方はよくないのですが、ただこのことに触発されて自主投稿が増えてきました。しかし、これも一過性のもの。再び投稿が集まらない事態に。。。

一年前からやり方を変えました。従来は教会員の近況報告のようなものを投稿としてお願いしてたのですが、「書く」という作業が苦痛で苦痛で仕方ない人がいるのです。無理強いはできません。これも賜物による違いなのかも知れません。 そこで投稿を活動報告に変えました。教会ではクリスマス会、バザー、修養会など様々なイベントが毎月のようにあります。そしてイベントに複数の方が関わっています。その中で書くのがさほど苦にならない方にレポートを書いていただいてます。写真を大きく載せれば4-5行で済む場合もあります。以下はポイントです。

読者をイメージしてvividに
極端な話、今の教会員が読むだけでしたら月報なぞ出さなくていいんです。皆が情報を共有してますから。でも教会員であっても教会を離れて活動している人がいますよね、宣教師とか神学生、他教会に転会された方。その方々に今どうなっているか知ってもらいたいのです。そして未来の読者、自分であり、これから教会に来られる方です。

判型はB5、ヨコ書き
異論もあると思いますが、見せるか読ませるかによって判型は変わってきます。写真集のように見せるものは判型は大きいほうがいいでしょう。一方、読ませるものは文庫のように判型がコンパクトなものほど読みやすくなりますね。
タテ書きかヨコ書きかなのですが、アルファベット使用を前提にすれば横書きにならざるを得ません。縦組みで美しい和欧混植の組版に出会ったことがありません。
まぁ、そんなこんなでB5ヨコ書きにしました。

ノドあきは20+20mm
見落としがちなのがここです。機関紙は必ずパンチしてファイリングします。パンチした時に文字や写真が欠けない設定にしてください。版面設計の天、地、小口のアキはまずノドあきを決めてからがいいでしょう。

基本本文はMS明朝、11pt、23pt送り
現役のDTPerから異論が出るような設定ですが、以下の理由でこうなりました。
自分以外の人が編集できる環境の構築。以前はOpenOfficeで作成してましたが、これとてバージョンUPがありますので「パーソナル編集長」を購入。使用フォントもフリーフォント使用することで、いつでも引き継ぎができるように。
で、意外とお気に入りなのがMS明朝とMS P明朝の混合使用。文字詰めをしたい時、アプリではなくMS P明朝に変えて詰めたりしてます^^
11pt、23pt送りはいくつかサンプルを作り、教会員に選んでもらった結果です。逆にこれくらいポイントが大きく、行間が開いてますと文字数が多い場合、ポイント下げ、行間を狭めて調整しても読み辛さなく収まりますので編集が楽です。
文字数の少ない場合は、写真、イラストなどをデカデカと入れてください。

写真はUPで
イベントがあると参加者全員が入った記念写真を撮ったりしますが、この写真を使用するのはお薦めしません。個人のUP写真を使用してください。違いは一目瞭然です。自分の教会にある印刷機は性能が低いので、集合写真ともなりますと誰なのか分からなくなってしまします。

本文書体、見出しを変える
基本本文はMS明朝、11pt、23pt送りなのですが、全ページこれでやったのではメリハリがなくなります。ですから投稿によっては10pt、20pt送りにしたり、ふい字などのフリーフォントを使ったりします。

まずはこんなところでしょうか。