2012年5月4日金曜日

神に用いられた名もない人

教会50周年記念誌の編集作業を進めている。記念誌の記事に出てこないがアダチさんのことをに書きとめておこう。

アダチさんは数年前に天に召された。教会の開拓者アメリカ人宣教師時代に在籍されていた方である。引越しを機に教会を離れたが、6年ほど前に教会に戻られた。だから自分との接点のある教会生活は2年あったかどうかである。そのためさほど親しく接していたわけではない。
けれどここにきてやたら思い出される。

日本の教会はほんの一部を除いて教会が成り立つかどうかのギリギリの人数が大半。そのためか信徒が他の教会に移ったりすると、教会員を獲った獲られたの感情が働く。牧師であってもだ(いや牧師だからからこそかも知れないが)。同じ教団の教会に移る場合でもそれが働く。

15年ほど前に近隣に韓国人宣教師の教会が開かれた。近所ということもあり、自分のいる教会も教会の開設に協力し様々な援助をし、教会員どうしの交流も生まれた。それなりにいい関係が続いていたのだが、教会員が近所ということもあり韓国人宣教師の早天祈祷会に参加したのを機に牧師同士の関係が悪化。そのためかその教会員の方はどちらの教会に行くこともできず、今は別な教会に転籍された。

まぁ、どこの教会の牧師も他の教会から信徒を引き抜こうと考えてはいないのだが、結果としてそうなってしまうことは間々ある。「誤解」という奴なのだが、それを解くには並々ならぬエネルギーを要する。というより解こうとすればするほど、より誤解が生ずるというのが世の常。

アダチさんはそんな時に韓国人宣教師の教会にやってきた。ご主人が亡くなったのを機にこの地に戻ってきたのである。礼拝に出席し、宣教師と雑談している中でアダチさんが以前いた教会が自分のいる教会であることが判明する。なんでアダチさんが自分の教会に戻って来なかったのかというと、アメリカ人宣教師時代から日本人牧師に替わる時に教会名が変わってしまったからである。

そして韓国人宣教師の方はアダチさんをこちらの教会に戻された。

それを機に牧師と韓国人宣教師の仲が回復し、以前以上に関係が深まり今日に至っている。

アダチさんはそんな経緯を知らずに礼拝に出席し、その後天に召された。
自分が神に用いられたということを知らずに。

存在する。ただそれだけ神に用いられる。それを証しされた方でもあった。

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