2013年5月16日木曜日

神学こそが最強の学問である(前半)

統計学が最強の学問であるが売れているらしいが、タイトルの通り。
はじめての宗教論 左巻―ナショナリズムと神学

一読しただけではちと難しい。右巻を読んでないためメモ書き。
 ところがプロテスタントには、イエスがキリストであるということを認めない教派もある。たとえばユニテリアンがあります。イエスは救い主ではなく、偉大な教師だったという主張です。プロテスタントの規範からすると、キリスト教の基準というのは、イエスが救い主であることを認めるかどうかにあるでしょう。しかし、ユニテリアンがキリスト教から排除されることはありません。
 そのほか、統一教会(世界基督教統一神霊教会)はどうかというと、教団は文鮮明師をメシアとします。イエス以外のものを救済主とすると、これはキリスト教の公理系違反になるわけです。もっとも、統一教会がキリスト教から派生した新宗教であることは、間違いありません。一部のキリスト教徒が統一教会を目の敵にして、攻撃するのは間違っています。伝統的なキリスト教と統一教会の差異を正しく認識し、相互に信仰を尊重し合うことが重要です。(p33)
ここでいう一部のキリスト教徒に当てはまるのはワタシですw いくらなんでも、これは論外だと思ったものの、著者はインテリジェンスの世界に身を置いていたわけで、この視点から見ると氏の本心ではないと勝手に推測。異端だと宣言した相手から貴重な情報を引き出すことはできないでしょう。と同時に、諜報の世界で統一教会が無視できない存在であることが窺える。

 20数年前、統一教会の信徒とは韓国教会に身を置いている時に出会った。もっとも彼が統一教会の信徒であることはかなり後になって知ったのであるが。。。
 彼は聖書勉強がしたいと教会にやってきた。私たちは疑うことなく彼を受け入れ、一緒に聖書勉強をしていた。
 どうも統一教会の信徒の方は、社会的に非難されている団体のためか、本当に自分の信じているものが正しいのか?の疑問を持ち、他教会にきて確信を得ようとする傾向があったように感じられた。
 また教会が統一教会に乗っ取られかけたという話も耳にしたことがある。求道者を装い教会に来て洗礼を受け、熱心に活動し教会の中心人物になり、牧師を追い出し。。。

 彼が教会に来たのは確信を得るためだったのか?それとも計画的だったのかは今もって不明。
ナショナリズムというものは、人間が作り上げた国家という偶像への信仰を強要する、きわめて危険なものだからです。キリスト教は貨幣とナショナリズムには警戒しなければならない。しかし、貨幣と国家なしには、二一世紀に生きているわれわれの生活はもはや成り立ちません。(p66) 
これは信仰者においては継続的な課題。で、本書で答えは出てない。シュライエルマッハーの教会=国民=民族の「神は内に宿る」の理論を紹介。内面に絶対者が居る「解釈の過剰性」。
ナショナリズムの理想は生への拒絶と死への愛であるというケドゥーリーの指摘は問題の本質を衝いています。(p75)
まぁ、この辺りは右翼の自爆テロ的切腹自殺を見れば理解できる。
このように、メタ学問として学問の世界全体を統括するのが神学の役割だというのが神学の側の自己認識です。だから、ヨーロッパの総合大学において神学部がないということは考えられません。(p102-103)
著者の立場は、まさにここにあると感じられる。神学は長い年月、あらゆる疑問、指摘に答えられるように理論的に完成されている。そして神学を神学の中に閉じ込めることなく現実世界に適用している。まぁ、この辺の応用力というのは本当に頭のいい人しかできないことであり、自分には無理。それゆえ、この本を読み知恵熱が出たのです。w
人にはそれぞれ天命がある。その職業につかないといけないというのがキリスト教の職業倫理です。(p111)
天職をベルーフ、単に金を稼ぐのをジョブと区別している。天命が分かって仕事に就いている人は幸せというしかない。50を過ぎた今でも自分は天命、天職というのが分からない。

本書には記されていないが、聖霊の賜物というものがある。個々人によって違うものらしい。これすら私には自分がどんな賜物を持っているのか分からない。教会によるのだろうが、聖霊の賜物、聖霊そのものについて語ることはほとんどない。DTPが天職、天命だと思っていたが、復帰の道が途絶えた今、それは全くの思い違いだったと思わざるをえない。
受肉論という比較的狭い専門分野でも、同志社大学神学部図書室の関連文書を読むだけで二〇〇~三〇〇年かかる。(P113)
神学をやっている人を全員集めたからといって神学の全体をつかめるわけではない。(中略)
 全体をつかめなくとも、他の分野はだいたいどうなっているのかという概説的なことは知らなければなりません。組織神学を専攻している人でも歴史神学や聖書神学や実践神学について一通り知っていないといけない。そうしておけば専門外のことについても、専門家としても明確な判断はできなくとも、おかしな議論に対しては「あ、この議論はずれているぞ」とか「これは、デタラメだな」ということはわかる。(P114)
このために勉強するのですね。「学問のすゝめ」。なお、神学と哲学の違いを神学は身体、哲学はそれを包む衣服としてます。倫理は救済のためにどのような正しい選択をするかという、自らの決断。
弁証学というのは一言で言うと、敵・外道との喧嘩のための学問。キリスト教以外の人々との関係において、キリスト教が正しいということを証明するのが弁証学です。それに対してキリスト教の内部、つまり他のキリスト教のグループに対してわれわれのグループが正しいという証明をするのが論争学です。(P144)
右翼と左翼の関係が弁証学、内ゲバや内部闘争が論争学。弁証学は教会に対する敵意を退けるための弁護。論争学は異端審問学。

で、個人的にうなづけたのがP146に出てくる理神論。
最初の第一撃は、神によってパコーンともたらされた。そして、その一撃の後は全部、物理の法則で動く――このような考え方です。
まぁ信仰に入る時というのは、このパコーンという第一撃を誰しも経験しているわけです。そしてキリスト者に共通するのが「あなたの人生の中で最高の出来は何でしたか?」の質問を受けた時、誰しもこのパコーン体験を答えるのです。(ひょっとしたら違う人もいるかも知れません)
 早い話が教会というのはこのパコーン体験を持つ人の集まりでして、イエスキリストのファンクラブだと思ってもらって間違いありません。違ってたらごめんなさい。
 その一撃の後は全部、物理の法則で動く――は異論おおありなのですが、いつも神を身近に感じてるわけでもないので、まぁ良しとしましょうw 大事なのは最初のパコーンなのです。好きだなぁ、このパコーンという表現。

祈りという行為をとおして、神の声を聞く。しかしシュライエルマッハーの構成では、それは、イエス・キリストによる啓示ということではなくて、「宇宙の直観」「絶対依存の感情」という形で自分の良心の声を聞くことになる。(p157)
未信者と話して「神の声」などとこちらが言うと「それは良心の声なのでは?」との疑問を受けることがあります。よく引き合いに出されるのが遠藤周作氏の「沈黙」に出てくる声です。良心の声は自分の内にあるものが出てきますが、「神の声」は自分の中にはないところから来ます。ロドリゴが聞いた声をもともと自分の内に持っていたのなら彼は宣教師にならなかったでしょう。
プロテスタントはカトリックから分離するときに自らの絶対的な正しさを主張したのではなく、わが道を行くという形をとったからです。ここにプロテスタンティズムの原点があります。(p161)
教会を替わった人にはすっと理解できる箇所です。と同時に教会を離れたことで罪意識に襲われる人には読んで欲しい箇所です。「神の声」が聞こえたとき、それは真実です。でも全ての人に適用されるわけではないのです。聞こえたあなたにとってだけです。だから恥じることなく自信を持って示された道を歩んでください。
「イエス・キリストの十字架上の出来事を完成させるのはアーリア人種の長であるアドルフ・ヒトラー総統だ」と言う場合、これは異端になる。(p167)
ヒトラーを文鮮明に置き換えると氏の本心が分かりますw

と、第4章までメモったけど無駄なページがひとつとしてなかった。理解できないところも多々ある。著者とは同年代なのだが、学生時代遊び呆けていたのと追求していた人との彼我の差を感じざるを得ない。突っ込んで勉強する気も能力もないがキリスト者として最低限の基礎知識はつけておかねばな。

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