2012年9月3日月曜日

勝得善と歴史認識


教会月報に掲載予定の記事。

 ロンドン五輪を契機にナショナリズムが高揚し、日中、日韓の領土問題がマスコミを賑わせている。妻が中国、そして韓国で洗礼を受けた身としては内心穏やかでない。正直、泣きが入り、もう勘弁してくれとの思いがある。民族感情がこじれて、どうやってキリストを宣べ伝えることができるのか? 韓国から多くの宣教師が来ている今日、マイナスにしかならない。

 感情に駆られて教会月報に政治的な問題を載せていいのかと迷ったが、書く。

 悶々としている中、「勝得善」という言葉を目にした。『勝てば官軍』の言葉があるように、勝ち=得=善となりがちだが、順列組合せで勝得善、勝得悪、勝損善、勝損悪、負得善、負得悪、負損善、負損悪があるという考え方だ(目からウロコ)。

 国家的立場は「勝得」を優先して考えなければならないだろうが、ひとりのキリスト者としてはやはり「善」を追い求めなければならないと思う。「負損善」でもいいと思う。

 ただ、どうしても譲れない一線がある。それは歴史認識。

 この歴史認識が各国共通ではなく、各国独自の認識であるのが現状。自分から見ると行き過ぎた認識を持っていると思えることがある(南京大虐殺の被害者数)。捏造と思えることすらある(従軍慰安婦問題)。これらの事例を教会に置き換えると「主の復活はなかった」「ユダの福音書」「三位一体ではない」等の異端を容認することに等しい。異端を容認することは福音を否定することであり、同様に各国独自の歴史を容認することは正義を否定することになる。

 日本でも「ネット右翼」と称される人々が積極的に書き込みをしている。具体的な事例、数字を挙げてだ。説得力があるだけに彼らの「日本は侵略戦争はしていない」の論理に引き込まれそうになる。

 共通の歴史認識がないから独自の歴史を教育現場で教えることになる。最近では「世界最初の古代文明は古代朝鮮を加えた五大文明」なる驚きの教科書も目にした。そして今、独自の歴史教育を受けた世代が各国のリーダーになっている。幼少期から刷り込まれた意識を拭い去るのは容易ではない。

あくまでも私個人の意見ですので、所属する教団、教会の意見ではありません。

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